新住協総会@香川県への出張を利用し、前職工務店の山陰地方OB宅へ点検へ—(^^♪
松江城のある宍道湖を臨むビジネスホテルから早朝に出立!(前回ブログ)
山陰道を2時間ほど西走し、目的地である島根県・石見銀山近くのMさんOB宅へ無事到着しました。
山を削ってできた小高い丘状の土地にかわいい赤い瓦屋根のログハウスが(^^)/
(2003年竣工)
ここは石州瓦(せきしゅうかわら)と呼ばれる瓦屋根の産地。
長年の風雨に耐える粘土と、焼窯用の木材がそろわなければ産地とはなりませんが、ここはあるんですね双方が。
瓦の産地といえば他に淡路島(淡路瓦)や愛知県三河地方(三州瓦)などが有名です。
この家を建てる際、「石州セラミカ」さんという数キロ先の工場から現場に瓦が運ばれてきました。
聞けば数年前に破産してしまったそうで・・・。
20年以上経っても変わらないように見えます。瓦、すごいっすね。いいですね。
地震時に耐えられるようしっかり耐力壁を確保すれば、構造的には安定した建物がつくれますのでね。
窯変(ようへん)と言ってたかと思います。
焼く温度なのか土質なのかよく知りませんが、瓦の形状は同じでも異なる3色の瓦を混ぜて表情に変化をつけて葺いています。割れてしまったときなど、部分的に瓦を変えるときにも違和感が残らなくてよいかも。
混ぜ葺きは若々しい感じでエネルギッシュなイメージがでますね。ログハウスは赤い屋根が似合うなぁ。
この写真の奥の方に、3年後、両親のために平屋のはなれを増築しました。
築21年の丸太の色の変化を見よ。
そしてこの青空!
この山陰地方はなかなか晴れることは珍しいのだよ ふっふっふ。
完全に雨男は払しょくされましたな、この行脚で。
この窓の上のエジプト的な飾り板をみよ!
なんという遊び心だろうか。単に飾りだと思わせないなにかがある・・・。
Mさん、来冬に向けてマキ割りしていました。
ちなみにこの行脚帰路の道中、私の頭の中では北の国からのあのギターが流れており、30年前の就職活動期を思い出していました。
特に建築家になろうとか、設計士にあこがれていたとか、では全くなかったんですが、いざこれからの職業として何をひとまずやりたいかと考えたとき、「ログハウスを建ててみたい!」という衝動だけで、当時長野県内に97社あった全ログハウスメーカーに求人があったら教えてほしい旨のお手紙を送りました。しかも返信用切手付き封筒を入れて。
97社のうち、3社より返信がきたのですが、さらにそのうち2社と面談することになります。
1社は私の地元・松本市のけっこう大きなログハウスメーカーだったんですが、人事担当の方がなななんとアポイントを失念したそうで、事務のおばちゃんとなんとなく世間話をしただけで終了。
結局もう1社の社長と某ホテルのラウンジで面談し、即日内定がでるという展開となりました。
ある意味「ログハウスを建てたい!」という希望はかなったものの、ログハウスといえばハンドメイド感が最大の魅力ではあるのですが、そこは時代で、効率化や大量生産による経済性で手作り感がやや薄まっていっていたのは事実。
それでもなんとか時代に逆らってやってはいたものの、2011年にこちらもまた倒産に至るのです。
心配していた丸太の梁や柱の腐れもなく(この水切り板金のおかげ)、深い軒の出によって大きなダメージは確認されませんでした。
20年ぶりに第三種換気扇のファンを清掃していただきました(本来1年に一回)。
あ”~、すっきりした~!(^^)!
Mさんとこの20年の出来事をお互いに報告しあいながら、この家のメンテナンスの仕方や方法を伝授してきたつもりです。
夕方出発し、明日のOB宅=鳥取県米子市へ移動しました。
まるで日本とは思えないこのロケーション。
この地域は芝生の産地で、あちらこちらに芝畑(?)が。
2001年竣工のこの家も、前歴は芝畑でした。
20年ぶりだったでしょうか。お互い歳を重ねましたが会えばすぐにわかりました。
鳥取は大阪から高速道路・中国道→米子道で2.5時間ほど。長野市からだと7~8時間ほどで車で行くことができます。
日帰りはさすがにキビシイですが、海の幸・山の幸は旨いですし、それほど寒いわけではないので暮らしやすい。
台風対策ででっかい窓には養生テープが張られっぱなしになっていましたが、とんがり屋根が特徴のポスト&ビームログハウスです。
この家を建てたころ、私も施主のOさんもまだ20代後半で、若かったなぁ。
朝3時に自宅を出て、お昼ごろにここに着いて、材料などをおろして夕方から施主打ち合わせをして、大阪まで移動する、なんてことを平気でやっていました。ざんまいざんまいログざんまい。
でも何ですかねぇ、家の中に入るとあちこちに備え付けた造作物が当時の記憶を呼び起こし、
「人生悔いなし」と思わせてくれました。
当時の会社は倒産・解散してしまったものの、こうしてまた再び会うことができ、あれやこれやとしゃべることができる関係というのも、距離はあったがお互いを信頼し尽くして家をつくったからこそなのだろうと思います。
当時はあまり目に入っていなかった大山さま!
四国・山陰行脚を締めくくる日に、晴れてお出迎えしてくれた気がします。
会社がなくなっても、私が死んでも家は残る。
永久的にとは言えまいが、図面や点検記録が残っていれば引き継いでくれる人もきっと現れてくれるだろう。
かのエジプトのパピルスに記された古代文字のように。