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追悼

2013.03.10

明日は3.11です。改めまして被災に遭われた方にお見舞い申し上げます。 もう、あれから2年になるのですね。私は当時無職で、携帯電話のドコモショップにいました。解約の手続きをしている最中に、突然大きな揺れを感じました。ショップには大画面のテレビが壁に掛けてあったのですが、すぐさま地震情報に番組が切り替わり、東北地方で震度7という速報が出ました。東北で起こった地震が、ここ長野市でこんなにも揺れるものかと、震源地を疑いましたが、家族や東北地方に住んでいるOBの方、あちらにいるだろう知り合いの顔が思い浮かびました。当然携帯電話の解約手続きは中止。すぐさま自宅に戻りました。 すぐに家族とは連絡が取れ、無事を確認しましたが、先ず情報を得ようと思い、テレビにかじりつきました。当時私は諸事情により家族とは別居し、一人で自宅にいました。各地の監視用カメラから映し出される様子によって、津波が防波堤を超え、街が水没し、自動車や建物が流され・・・、その惨状をライブで傍観していました。 一人涙が止まらず、何とも整理のつかない心境でした。 その後も続々と入ってくるニュースに、「あぁ」とか、「ありゃぁ~」などとつぶやいていたと思います。 また、その日の深夜に、長野市からも距離の近い栄村というところでも相当大きな地震がありました。私の家もかなり揺れました。揺れがくる数分前から、「コンコンコン」という原因不明の音がしていました。(地面に10m以上打ってある建物下の鋼管杭が共鳴していた?) 草木も眠る丑三つ時でしたが、東京で帰宅困難者になっていた兄と、松本市の両親から安否確認の電話がありました。 この日、日本中が大混乱していたと思います。その時自分自身の置かれている状況もあってか、もう何もできない、何が起きても仕方ないなぁ、と開き直った心情で、いろいろなことをぼんやり考えていました。 テレビでは、何もかもを失った人々の声、何百人何千人という亡くなった方のリストが読み上げられ、福島原発の惨状、放射能被害についての観測や評論、津波が押し寄せた時の録画映像などが、繰り返し放送されていました。 そんな状況で私は、生きる勇気をもらったように思います。「自分の状況はぜんぜんマシだ。もう一回ゼロからやってみよう」数日後、そんな心境に変わっていったのです。   あれから2年。仕事を通じて、たくさんの方との出会いや支えに恵まれました。いまこうしていられるのも、あの巨大地震があったればこそだと思っています。 被災地の復興を、まだまだ直接的にお手伝いできていませんが、電力問題に直結する省エネルギー住宅の普及、薪ストーブなど自然エネルギーの更なる利用など、日本というわが母国が、これからもずっと続いていけるような社会・子供たち孫たちが安心して暮らしていける社会になるよう、設計や建築という仕事を通じて目指していきたいと思います。 亡くなった方々には哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。今年40歳を迎えるわが身ですが、一身をこのことにすべて捧げていこうと思っています。                    

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